九州での地震はまったくひどいもので、
今回もまた想像もつかないやり口で痛めつけるようなところがある。
まったく居た堪れない。
この地震が起こる前から福島の資料を少しずつ読んでいる。
何かできることがあるとは思っていないのだが、
このように遠く離れて生き残ることについて、
今後も考えていく必要があると思ったからだ。
まぁ、こういう入り口はどうでもいい話だ。
なんせ、こちらはまだあまりにまとまらない。
それよりも、提言になるようなことを思いついたので書いてみようと思う。
*** お題 ***
もっと余暇を増やし、社会的としてコミュニティに投資すべき。
様々な自然災害が突発的に起きている。
これは最近目立っているとか、そういうのはたいしたことではない。
僕らの歴史感覚とはまったく別個の環境時間が流れているから、
「災害が多い」ではなくて、
「災害はいつ起きるか分からない」ということを前提にすべきだ。
忘れた頃にやってくるなどという箴言は、備えることの不可能性を示唆している。
被害をいくらか抑えることはできても、
被害をゼロにするのは不可能だ。
その前提に立つ限り、いかにして立ち直れるかは非常に重要だ。
その時、コミュニティの重要さはよく言われている。
特にカタストロフを共有した同志として絆も芽生えやすく、
素晴らしいコミュニティがいくつも報告されている。
しかし、これはもちろん事前の環境も相当影響している。
さらに、コミュニティごと壊滅される場合すらありうる。
大事なのは複数のコミュニティを平時から各人が持つことだ。
職場も当然1つのコミュニティであるし、
近所付きあいもそれももちろん、1つのコミュニティだ。
ネットのフォロー関係もそれだって立派なコミュニティである。
本当に何もコミュニティを持たない人というのはごく限られている。
つながりの濃さは濃淡あれど、複数のコミュニティを持つのは
ごく自然なことだと言っていい。
しかし、日本の高度経済成長期のモデルはそうでもなかった。
父親となれば、職場にほぼすべてを捧げるべきで、
残りは当然愛する箱庭家族。
母親となれば、さらに狭く近所付き合いと、家族。
それも核家族化が進行していく中で、親戚付き合いも希薄になっていく。
これが不景気になり、男女共働き、
ダブルインカムで家計を回すスタイルが増えていく。
ワークライフバランスという言葉もよく聞かれるように
なってきたけれども、これはいまだ「実現できたらいいね」という
夢物語のようだ。
もちろん、上手くやっているところもある。
資生堂の取り組みなど、個人的にはかなり感心した。
けれども、企業の自助努力、あるいは労働争議のテーマとして話すだけでいいのか?
先ほど申し上げたようにコミュニティは
不測の事態が起きた時の社会の強靭さに関わってくる。
(はやりの言葉ではレジリエンス)
その為には労働の時間に対する規制を強めるべきだと考える。
具体的には残業手当の高額化(通常時給の2.5倍くらいとか)、および健康を損なわないための厳格な上限の規定の導入だろう。
(労使協定でぐだぐだになるというのは本当におかしな運用だ。)
事業主の方はこうした時、
労働規制が強まるのは勘弁してほしいと思うだろう。
しかし、3つほどの理由を簡単にあげて反論しよう。
第一にこれは単純に効果的な福利厚生となる。
第二に社員を自由にさせておくことは、社員を通じて会社はより社会に浸透することになる。
第三に社員の可能性を各人に任せることにより、多様な感覚を社内に残しておくことができる。これは新規の市場発見や、成熟市場の活性化などに強く影響する。
ゆえに、労働時間の規制は単純に悪影響にはならない。
個別的には人員の確保などで難しい点があるかもしれないが、
社会のコミュニティの発展を妨げることは社会にとっての損失なので、
やはり労働時間の規制が最優先となる。
逆に働く側からすると、十分な給料が得られなくなるのでは、
と思うかもしれないが、仮にそうなら標準時間での給料がそもそも問題なのであって、労働時間の規制以前の問題となる。
この時、オプションにあがってくるのは
最低賃金だが、可処分所得を増やすのは確かに
経済政策的にも悪くないが、
むしろこれは労働への誘引を高めて雇用者を強くしかねない。
それよりも広く薄く労働関係を作ることのほうがよい。
求人数が増える中で自然に時給ベースが高まるのが望ましい。
あるいは、ダブルワークなどもそれだけで社会関係の複線化につながるのでこういったものもよい。
ただ、ベストと思われるのはベーシックインカムである。
所得にかかわらず一定額を給付することは、
低所得者にも労働の流動性に関する恩恵を与えることになる。
この流動性は単純に労働のものでもない。
たとえば土砂崩れがあった故郷に駆けつける若者を支援する
行動の流動性にもつながるはずなのだ。