2013年4月2日火曜日

京都新聞より。ボーダーについて。

キプロスの学生の話が載っていて、
留学したものの困り果ててるよってな状況が伝えられてる。
(どうだろ、伝えたいニュアンスとその人本人のニュアンスは一致してるかな)

思えば、留学だけでなく出稼ぎやらなんやら
国境は軽々と越えられる。
ただ異文化であるというだけで、仮に言葉ができても
少なからずのマイナス査定はあるだろう。

にもかかわらず、母国よりマシと思える
というのが現在の格差世界です。

ガラパゴスだなんだと言われているうちは
まだ豊かであったと過去形で語れるうちなんだろう。
つまるところ離脱しつつあるわけだが。

ここからの100年、我々が試される。
我々という概念のキャパシティが。

サービスであり、インターフェイスであり、
ガイダンスであるようなそんな形態の商人がいまや力を持つだろう。
なぜと言って軟着陸しなければならないからね。

さて、もう一つ京都新聞に面白い記事があってね。
伊平タケさんという瞽女さんの、いわゆる盲の芸人の、記事があった。

長くなりますが論旨を要約します。

瞽女さんの芸は選ぶところがない故に得られた懸命さが芸を高みに置いている。
それは「しかたなしの極楽」として彼女には内面化される。
また一方で、現代の盲学校あるいは障害者教育というものは
「平等」を理念に進められる。それは選択肢を増やすもので良いものではあるが、
瞽女さんの芸にあったような差異を立脚点においたものとは道行が根本的に違うのだ。

ん、まぁなるほど。しかし、
健常者たる僕としては「しかたなしの極楽」なぞどこにでもあると言おう。
差異を立脚点に置くか否かは、この際関係ない。
溢れるばかりの凡庸さを、 無数にある選択肢を選びきれない
この怠惰を味わうばかりの健常者の僕にとってそれはどこにでもある。

いまや孤島に浮かんでいるとしても、
しがみついているうちは極楽である。
勝手に驚いて手を離さない限りは。
あるいは手をつないでしまえばいい、ごく単純に。
はなから我々などパッチワークであった。

そしてこの駄文を僕のビール一杯の世界に対する代金とさせていただく。