2013年6月18日火曜日

自由と平等と平和と

さて、参院選が近づいてまいりました。
憲法がどうのとやかましいので、僕も少し
自分の中での基本的な概念と自分の立ち位置を確認したいと思う。

平和と自由と平等と。
それぞれはまったく別の要素から来ているからこそ
高々と三つ掲げられている。

それをどのように総合するか。

平和とは生存の保証であり、
それ自体疑うべくもなく受け入れて良いものだろう。

具体的には私的な空間における暴力の排除である。
または公的な空間における暴力の統制である。
対外的には暴力を担保することである。

これは一義的に政府が君臨すべき内容である。
なぜなら、ごく単純に私的ー公的という空間の分節は
政府にしか与えられていない権能だからである。

そして、平和と自由は相克する。
自由は競争を生み、暴力への道が開かれている。
また、平和と平等はどうかといえば
平等が動的な均衡を指せば、そこにもやはり闘争がある。

自由に関しては何故目指されるべきかが曖昧である。
責任のためか?もしくは、充実のためか?
また、文明の発展のためか?

責任とは他者との関係において、
充実とは個人の内面において
文明の発展ならば社会的な効用において、
それぞれ自由は姿を見せるがどれも違うニュアンスになる。

しかし、いずれにせよ
未来へのベクトルが表明されている。
確固たるものではないが、言わば希望と表現してもよい未来のことだ。
平和は現在の私を守るが、
自由は希望によって未来の私を守る。

平等とは何か?
どのような範囲において、何を基準にするのか。
3つの概念のうちで一番内容が不明瞭である。

共産主義者は富を基準にする、と答えたが、
あっという間に希望が失われた。
それではいけない。

平和と自由を担保するために平等があるとするならば
自由を尊重し、平和を愛する人々のために
平和と自由を平等に与える。
このように答えるほかないのではないか。

ここまでで残った問題としては
暴力の定義と、公的ー私的の振り分け、この2点になる。
とりあえずいったんおしまい。

***

え?権利?
そんなものは平和と自由を切り分けて
ごちゃ混ぜにパッケージした小売用商品でしょ。