2016年4月29日金曜日

雨降り、屋根のないところに差し渡す善意など

京極の商店街を歩く時、
錦天満宮を見かけるとなんとなくお参りをするのは
京都に対してよそ者であるという自覚のなせる業でないかと思う。

薄く雨が降る錦天満宮は寺町から見れば
ファーストフード店の横に入口の鳥居があるという
ちょっと不思議なかたちをしているので
最近は外国人観光客がセルフィを撮ってるのをよく見る。

中に入るには宗教的な厳格さが判別しにくい。
だから、写真は撮っても中に入ろうとする人は少ない。
入ったところで、鳥居から奥の参拝するところまで30歩程度か。
ごくごく狭いところだし、なんというか庶民的な神社なんだが。

手を清めて、天満宮オプションの牛を撫でてお参りする。
2人ほど先に来ている人がいた。
初老の男性が二人だが、片方は仕事をリタイヤしたか休みで
片方はビッチリとスーツを着ていた。

スーツの人は、ズバッと言う音をさせて90度までお辞儀をする。
そうしなければならない理由がはっきりあるみたいなお辞儀だ。
九州に親戚でもいるのだろうか。

もう2週間も経った。
今、これ以上ひどいことはあそこでは起きないかもしれない。
それでも、家がなくなることはみじめなことだ。すぐには建てられないし。
物流インフラもこれもすぐには立て直せない。

エクアドルの地震のニュースを見てたら、
水の配給に前日から並ぶという混乱具合だった。
熊本はマシだ。日本は災害に学び、進んでいる。
それは、みじめでないわけではない。

「応援しよう」と言って、
その土地の商品を買うのは本当に応援になるのだろうか。
いや、僕の精神衛生的にはかなり助かる。
しかし、熊本の美味いものを送ってもらって、
コッペパンを買ってもらうというのも変な話だ。
途中運んでるコストを含めてもこれが経済的ということであるとは思う。
避難所ではニーズが顕在化しないから。
(商店という機能の素晴らしいことよ)

経済が十分でないなら、
政治があるので決断したらよろしいわけで、
いつになったらインフレターゲットは成功するのか
というわけでもあるわけですから、ねぇ。

ところで、五輪もロゴが決まってめでたいことですが、なんというかブラジルもごたごたしてるし、五輪ってもしかして発展途上国のするものなのかなと思っている最近であります。発展のための踏み台にするものなんて、事欠かない我が国ではありますが。

2016年4月21日木曜日

コミュニティについて、補足。

昨日のエントリーに補足をしたくなった。

それはいかにも、勤務時間の短縮が
即座にコミュニティの醸成に役立つと思われる可能性があったからだ。

これは明らかなことであるが、
コミュニティ醸成の必要条件であって、十分なものではない。
だから、社会的な投資は勤務時間の短縮だけで済むものではない。
それを超えて積極的な投資が望まれる。

ただし、コミュニティに関する投資は、一概に評価が難しく
行政が介入すると癒着の原因などにもなりやすい。
それに、お仕着せのコミュニティはどうしてもその参加率を下げやすい。

ネットワーク維持のコストが低減しているいまだからこそ、
複線化したコミュニティの所属が実現できる。
行政の立ち位置はそのような現実を受け入れて、
よい方向へと誘導できる環境整備に力を入れるべきである。

ぼくの今回のエントリーは、
つまるところコミュニティに行政がかかわる
リスクを避けられる範囲での条件整備策となる。

また、労働条件の問題は経済問題と生存権とのあいだで
常に問題をはらんでおり、言及しなければ
「健康をそこなわない程度で
双方の合意があれば長時間労働も認められる」ことになりかねない。

これは十分に強調すべきことだが、
ぼくの今回の記事はこの「勤務時間」の問題に
「使用者」「雇用者」の2者関係に割り込むものである。
それも彼らを支えている環境としての社会からの提言として
力を持つべきだと考えている。

こんなところで、書くことがいかほどの力になるかは別として
言葉は誰が口にしても同じ意味になるのだから、
この文章を書くことで誰か別の口にのぼることを願う。

レジリエンスは余暇ですか?

九州での地震はまったくひどいもので、
今回もまた想像もつかないやり口で痛めつけるようなところがある。
まったく居た堪れない。

この地震が起こる前から福島の資料を少しずつ読んでいる。
何かできることがあるとは思っていないのだが、
このように遠く離れて生き残ることについて、
今後も考えていく必要があると思ったからだ。

まぁ、こういう入り口はどうでもいい話だ。
なんせ、こちらはまだあまりにまとまらない。
それよりも、提言になるようなことを思いついたので書いてみようと思う。


***  お題  ***
  もっと余暇を増やし、社会的としてコミュニティに投資すべき。

様々な自然災害が突発的に起きている。
これは最近目立っているとか、そういうのはたいしたことではない。
僕らの歴史感覚とはまったく別個の環境時間が流れているから、
「災害が多い」ではなくて、
「災害はいつ起きるか分からない」ということを前提にすべきだ。
忘れた頃にやってくるなどという箴言は、備えることの不可能性を示唆している。

被害をいくらか抑えることはできても、
被害をゼロにするのは不可能だ。
その前提に立つ限り、いかにして立ち直れるかは非常に重要だ。
その時、コミュニティの重要さはよく言われている。
特にカタストロフを共有した同志として絆も芽生えやすく、
素晴らしいコミュニティがいくつも報告されている。

しかし、これはもちろん事前の環境も相当影響している。
さらに、コミュニティごと壊滅される場合すらありうる。
大事なのは複数のコミュニティを平時から各人が持つことだ。

職場も当然1つのコミュニティであるし、
近所付きあいもそれももちろん、1つのコミュニティだ。
ネットのフォロー関係もそれだって立派なコミュニティである。
本当に何もコミュニティを持たない人というのはごく限られている。
つながりの濃さは濃淡あれど、複数のコミュニティを持つのは
ごく自然なことだと言っていい。

しかし、日本の高度経済成長期のモデルはそうでもなかった。
父親となれば、職場にほぼすべてを捧げるべきで、
残りは当然愛する箱庭家族。
母親となれば、さらに狭く近所付き合いと、家族。
それも核家族化が進行していく中で、親戚付き合いも希薄になっていく。

これが不景気になり、男女共働き、
ダブルインカムで家計を回すスタイルが増えていく。
ワークライフバランスという言葉もよく聞かれるように
なってきたけれども、これはいまだ「実現できたらいいね」という
夢物語のようだ。

もちろん、上手くやっているところもある。
資生堂の取り組みなど、個人的にはかなり感心した。
けれども、企業の自助努力、あるいは労働争議のテーマとして話すだけでいいのか?

先ほど申し上げたようにコミュニティは
不測の事態が起きた時の社会の強靭さに関わってくる。
(はやりの言葉ではレジリエンス)
その為には労働の時間に対する規制を強めるべきだと考える。
具体的には残業手当の高額化(通常時給の2.5倍くらいとか)、および健康を損なわないための厳格な上限の規定の導入だろう。
(労使協定でぐだぐだになるというのは本当におかしな運用だ。)

事業主の方はこうした時、
労働規制が強まるのは勘弁してほしいと思うだろう。
しかし、3つほどの理由を簡単にあげて反論しよう。

第一にこれは単純に効果的な福利厚生となる。
第二に社員を自由にさせておくことは、社員を通じて会社はより社会に浸透することになる。
第三に社員の可能性を各人に任せることにより、多様な感覚を社内に残しておくことができる。これは新規の市場発見や、成熟市場の活性化などに強く影響する。

ゆえに、労働時間の規制は単純に悪影響にはならない。
個別的には人員の確保などで難しい点があるかもしれないが、
社会のコミュニティの発展を妨げることは社会にとっての損失なので、
やはり労働時間の規制が最優先となる。

逆に働く側からすると、十分な給料が得られなくなるのでは、
と思うかもしれないが、仮にそうなら標準時間での給料がそもそも問題なのであって、労働時間の規制以前の問題となる。

この時、オプションにあがってくるのは
最低賃金だが、可処分所得を増やすのは確かに
経済政策的にも悪くないが、
むしろこれは労働への誘引を高めて雇用者を強くしかねない。

それよりも広く薄く労働関係を作ることのほうがよい。
求人数が増える中で自然に時給ベースが高まるのが望ましい。
あるいは、ダブルワークなどもそれだけで社会関係の複線化につながるのでこういったものもよい。

ただ、ベストと思われるのはベーシックインカムである。
所得にかかわらず一定額を給付することは、
低所得者にも労働の流動性に関する恩恵を与えることになる。

この流動性は単純に労働のものでもない。
たとえば土砂崩れがあった故郷に駆けつける若者を支援する
行動の流動性にもつながるはずなのだ。

2016年4月18日月曜日

いかがわしい、セックスについての話。

 良いセックスがしたいと思うようになったのは、これはいよいよ本当に年を食ってきたと思う。週刊ポストとかも正直に言えば非常に気にはなる。気にはなるけれども、原理的にそこに良いセックスなどというものはないし、 もちろん今から書くこの原稿の中にもない。

 世界の子を持つ人たちのほとんどは童貞でも処女でもない。しかし、これがすべてと言い切れないのも確かでLGTBにも子どもを持つ権利はある。核家族が単独で子育てを遂行するのは非常に難しくなっており、社会での子育てが要請されている現在、むしろセックスなしで子どもを持つことは積極的に推奨されるだろう。

 またこのことから、セックスとは無関係に愛の結晶と呼ばれるものを手にすることはできるのは明らかで推奨されてもいる。ゆえにセックスの神秘性はともかくとして、それの神聖さは独占的な力を失っている。試験管ベイビーは恐ろしいことではあるけれども、それは恐ろしいほどの清潔さに基づいている。

 それにもかかわらず体の欲は、良いセックスを求めている。これは単純な個人的な確信であって、こういったことを表明するのは変態として扱われかないことは分かるが、1対1でこういうことを言う相手はちゃんと決めているので、そう無節操なつもりで言ってないことは理解してほしい。

 (高校の時、男子校に通っていたのだがその時の友人が、ホモに目覚めた。その時に高校生らしいリアクションとして友人の付き合いは変わらないけれども僕の方からは恋愛対象にならんぞ、と言ったら、「別に付き合いたからこういったわけじゃないし、ちゃんと好きなカレシはいるんだ」とだいぶ普通にのろけられて、なるほど、そりゃそうだよなと思いました。同じ部活のみんなでバスの後ろでの打明け話でした。)

 セックスは性的興奮をともなうやり取りであって、性器がどうのというのはあくまで形式的なものだということ。公園の藪の中に捨てられたエロ雑誌に興味があったのは隠されていたからだということを忘れて、ただ裸になってどうのというのは単に幼い。

 これからもう少しいかがわしい話になります。セックスのやり取りが形式的なものならそこから生まれる性的興奮こそが本質とされるべきです。これは資本主義を嫌いな人間なら大好きな原理で交換から余剰が生まれるパターンのアレです。贈与と蕩尽のコミュニケーションです。だからヒッピーだかコミューンにはいかがわしい感じがするんです。資本主義に反対するものたちはみんないかがわしい。18禁です。

 性器で感じるのではなく、脳みそで感じるというのは、でもセックスにマンネリを感じて色々試すカップルなら、まぁ気づく話です。だからオタクはいかがわしい。ネコ耳をつけるだけで、反応するし、髪をかきあげた時の耳の感じとかにも感じるし、ニーソックスの一番上の肉の弾力感でイケる。

 オタクがセックスできないというのはだから圧倒的な嘘で、相手がいなくてもセックスはできている。そうでなければ彼らがあんなに夢中なことの説明ができませんよ。だけど、残念ながら良いセックスにはならない。他者がいないから。自分が感じる受容体は肥大させながらも相手を感じさせることに感じないと良いセックスにはならない。ツンデレは擬似的な他者性を搭載した萌えギミックでそれなりにヒットしましたけど、そんな味の素みたいなんで許されますかと。(まぁ、味の素さんにはお世話になってます)

 感情と他者性を飲み込もうとする強欲と、飲み込もうとする他者性にあえて呑まれる欲情は、主体性を手放そうとする主体性でもありますが、もっとも強欲な肉欲です。水の中の水のようにただ混ざるのは動物的であるとバタイユは言い、これの官能を感じない人はいないと信じますけれども、同時に主体性をすでに持っている人間からしたら、他者に対する関心なくしてこの没入は成り立ちません。良い動物的なセックスは他者に対する慈しみなしではありえない、あなたが人間なら。

 もう僕らは通学路を歩く子供たちに声をかけてはいけません。他者に関心を持つのはいかがわしいからです。もうセックスなんてしなくてもいい時代が来ます。いかがわしいことなんてやめよう。宗教はアヘンで、酒はドラッグで、セックスは、さてなんと呼ばれるだろう。でも、いかがわしいことがいけないことだなんて誰が決めたのか。それともいけないことが好きなクチですかね。