2016年5月30日月曜日

マイノリティを救え!(増税派の嘆き)

はっきり言って今の政治状況はなんというか
本当に困るんですが、だって僕は消費税増税派なんで。

まず、安倍首相が増税延期の布石で経済学の知識人を招集(失敗)。
ついで、延期の雰囲気を感じ取った民進党が先手を取って延期の法案提出を決定。
そして、安倍首相も延期の方針を打ち出す。

なんというか、三党合意はその程度だったのね。
公明党が一番マシに見える。

民進党が自民の翻意を責めるのははっきり言ってオカド違いですが、
そこらへんは一応気を使って岡田代表は
さらに奥歯にモノが詰まった言い方になるし。

あの時、必要だというのは
2020年にあたりに財政健全化を果たすとか言う計画に
実現性を持たせるためのものだったんだと思ったんですが、
財務省は何してるのよ、本当に。
(あ、麻生さんが対応してくれてましたね、残念な結果でしたが)

ここから珍説自説となります。お耳半分で。

現状の金融政策がマイナス金利まで来たので
ほとんどこれは「流動性の罠」の話で、
金融政策が有効性を失っているのは明白です。

実効的な需要の喚起が必要ですが、
企業の投資需要は世界全体のことを見ればたいして伸びないでしょう。
なので、国内の消費需要の喚起が必要です。

ここで多くの人が勘違いしてると思うのですが、
消費税を上げることと消費の落ち込みは必ずしも連動しません。
国外に逃げ出す以外では、法人でない個人は
常に一定の消費をしないと死んでしまいますから、当たり前ですね。

もちろん、それで生活が苦しくなるとかはありえます。
贅沢もしにくくなるでしょう。
なら、税金はここで特に苦しくなる人の為に使えばよいのです。

生活が厳しい人に対する給付は、
経済的には留保にならずに、すぐに対流するので
それはその分だけ、別の経済主体を潤すことになります。

現状の僕の見立てとしては
将来不安のために過剰に貯金をしている層がいる、と思っていまして
(まぁおおむね国債を買い支えて来た層でもあるでしょう)
これはほとんど間違いなく、団塊世代あたりの貯金だと思うのですが
寿命が分からない中で年金や保険が頼りないと思えば
現ナマを詰め込んでおくのは致し方ないのです。

でも、こういうのって年金があれば
十分だろうと思えるくらいの体勢があれば
生前贈与もしやすくなるし、自分の趣味にもお金を使いやすくなる。

社会保障の安定は
個人の貯金を消費に向けやすくする呼び水になります。

それ以外にも税には所得の移転効果があるので、
格差が広がってると思うなら国の徴税力は高めるべきだと考えます。

はっきり申し上げて
税金を取らないということは
貧乏人には不利なことだと気づいていただきたい。
財政的には減税なら緊縮財政しかないんですから
姥捨山でも作るしかなくなります。


と、思ってるんですが増税を謳う政党がない現状
ワタクシは一体どうしたらいいんでしょうか。はぁ。

2016年5月23日月曜日

神は死んだ、そして蘇る。何故なら神だから

 梅雨が来ないまま、暑い日が続いておりますが、皆様お元気でしょうか。僕は今月3度体調を崩しました。ニートのクセにたるんでると思ったので、ちょっと気合を入れて書きました。長めですが、ここのところ考えてることの中間アウトプットでもあります。

 ひどい事件や、災害が起きると無数の写真がアップロードされる。暇にかまけてそうした画像をくぐっているとどうもほとんど神話的な世界を僕は生きているのではないかと思うぐらいに、写真が遠くに、そして圧倒的な象徴力をもって見えます。この遠さと、迫真性のある喚起力の両立は僕をさらにずるずると検索の海に埋もれさせていきます。しかし、この神話的というのはいったい全体なんなのか、少し考えてみます。

 神話について話す時、おおむね2通りの取り扱いの仕方がある。
1、神々の現れる物語、あるいは
2、根拠が神秘化された物語
前者は古事記であるとかギリシャ神話、もちろん文字に残らなくとも各地に残る口承の物語も当然含まれる。こちらは単に名詞的である。
後者はたとえば安全神話であるとか、あるいは田中将大の無敗神話なども当時では用語として存在した。こちらは修飾的な用法に近いだろう。

前者に似ているもので、キリストの行いの描かれた聖書や、釈尊に関する経典などなどは神話に含まれない。これは彼らの少なくとも存在が確認できると信じられている限りにおいて、数々の奇跡とは関係なく神話から除外される。このことから分かるのは、実在の不確実なものが現れている物語であるということだ。

では、信憑性がないのかと言えば、そんなことはない。むしろ信憑性がないのであれば神話と呼べない。これら神々はおおむね自然に代表されることが多く、そのことからこの川は神が敵と味方を分かつために流したとか、地形にいわくを付けて神話の裏付けをすることがよくある。または、これがもう少し発展してくると社会の仕組みに反映される出来事として、神話が現れたりもする。(レヴィ=ストロースの研究)

 この観点からすると現実に参照項を持つことによって神話は基礎を築き、かつその神話が「イマココ」の現実以前に語られていたという状況によって現実を補強する。結果が原因を探り当てる道筋が神話の動きということである。

 ここまで至れば、1、2と分けた後者の修飾的と用法の落差はほとんどない。後者に関しても現在の安全であったり、負けなしであったりと言った原因から、これがとんでもない物語であることを遡及的に指し示している。

 ただし、ここでもまだ残る差異は、後者においての時間差の無さであり、むしろ裏切られる可能性があるからこそ神話と呼ばれるその様態である。これは前者の表現のアイロニカルな表現なのだろうか?確かに、ほとんど肯定的意味合いで使われることはなく、不安や怖れと背中合わせの用語法となっている。

 その一方で、妙な熱が常にある。ヒステリックであるか、熱狂的であるかは問わず、神話的なと形容される現代の物語は人の感情を掻き立てる、逆撫でる。確実でないと知りながらも、求められている未来であり、希望の物語だからだ。

 ここに来て、修飾的用法の神話は未来を参照点にしていることが分かる。未来の痕跡を現在の経過から透視して、「イマココ」に人ならざる物語の成立を求める祈りがこの用法の動きだ。

 今や情報は無数に記録され、ほとんど無意識的に日常生活はアーカイブされていく。GPSでのチェックイン、ICマネーでの入出金、そこから分かる移動経路、通話記録、セルフィーに残された位置情報、時間情報、様々なアカウントに紐づけられた購入履歴。こういったものはビッグデータと呼ばれて、マーケターという職種の領野を増やしたけれども、これらは未来の痕跡を透視する仕組みとしても発展している。

 ただし、いまのところマーケターは祈りとは無関係だ。祈りは宗教とともにあったが、世俗においては政治家が担当することになっている。しかし、それ以前に祈りは個人のものだ。

 ビッグデータの時代にあって、それを実感できるのはサクッとグーグルで検索したり、ツイッターのトレンドに浮上したりと、個人が一部であっても膨大なデータを抽出することができる仕組みがあるからだ。

 おこのみの希望も恐怖も検索で何万件と揃う。これはそれだけで個人の手にあまりその意味で神話的だ。僕らはビッグデータの海で神を見つける。神は痕跡でもって語る。

 もちろん統計学はそういった神学から解放してくれるが、むしろ個人の祈りは数値的なデータから導かれることは少ない。数値ではなく無数のフォトジェニックな印象こそが明白な過去の痕跡であり、象徴となる。

 これらは直ちに神話となることはないが、無数の祈りに束ねられる時、新しい社会の基礎となり神話的神々しさをもって語りうる種だ。祈りに必然性がない以上、どのような神話が立ち上がるかは、その都度わからない。ただ、確かなのは祈りも無数の痕跡に支えられるのだから、祈りは口に出すこと、望ましいことは望ましいと口に出すことは慎みよりも尊ばれるべきだと思う。