2016年5月30日月曜日

マイノリティを救え!(増税派の嘆き)

はっきり言って今の政治状況はなんというか
本当に困るんですが、だって僕は消費税増税派なんで。

まず、安倍首相が増税延期の布石で経済学の知識人を招集(失敗)。
ついで、延期の雰囲気を感じ取った民進党が先手を取って延期の法案提出を決定。
そして、安倍首相も延期の方針を打ち出す。

なんというか、三党合意はその程度だったのね。
公明党が一番マシに見える。

民進党が自民の翻意を責めるのははっきり言ってオカド違いですが、
そこらへんは一応気を使って岡田代表は
さらに奥歯にモノが詰まった言い方になるし。

あの時、必要だというのは
2020年にあたりに財政健全化を果たすとか言う計画に
実現性を持たせるためのものだったんだと思ったんですが、
財務省は何してるのよ、本当に。
(あ、麻生さんが対応してくれてましたね、残念な結果でしたが)

ここから珍説自説となります。お耳半分で。

現状の金融政策がマイナス金利まで来たので
ほとんどこれは「流動性の罠」の話で、
金融政策が有効性を失っているのは明白です。

実効的な需要の喚起が必要ですが、
企業の投資需要は世界全体のことを見ればたいして伸びないでしょう。
なので、国内の消費需要の喚起が必要です。

ここで多くの人が勘違いしてると思うのですが、
消費税を上げることと消費の落ち込みは必ずしも連動しません。
国外に逃げ出す以外では、法人でない個人は
常に一定の消費をしないと死んでしまいますから、当たり前ですね。

もちろん、それで生活が苦しくなるとかはありえます。
贅沢もしにくくなるでしょう。
なら、税金はここで特に苦しくなる人の為に使えばよいのです。

生活が厳しい人に対する給付は、
経済的には留保にならずに、すぐに対流するので
それはその分だけ、別の経済主体を潤すことになります。

現状の僕の見立てとしては
将来不安のために過剰に貯金をしている層がいる、と思っていまして
(まぁおおむね国債を買い支えて来た層でもあるでしょう)
これはほとんど間違いなく、団塊世代あたりの貯金だと思うのですが
寿命が分からない中で年金や保険が頼りないと思えば
現ナマを詰め込んでおくのは致し方ないのです。

でも、こういうのって年金があれば
十分だろうと思えるくらいの体勢があれば
生前贈与もしやすくなるし、自分の趣味にもお金を使いやすくなる。

社会保障の安定は
個人の貯金を消費に向けやすくする呼び水になります。

それ以外にも税には所得の移転効果があるので、
格差が広がってると思うなら国の徴税力は高めるべきだと考えます。

はっきり申し上げて
税金を取らないということは
貧乏人には不利なことだと気づいていただきたい。
財政的には減税なら緊縮財政しかないんですから
姥捨山でも作るしかなくなります。


と、思ってるんですが増税を謳う政党がない現状
ワタクシは一体どうしたらいいんでしょうか。はぁ。

2016年5月23日月曜日

神は死んだ、そして蘇る。何故なら神だから

 梅雨が来ないまま、暑い日が続いておりますが、皆様お元気でしょうか。僕は今月3度体調を崩しました。ニートのクセにたるんでると思ったので、ちょっと気合を入れて書きました。長めですが、ここのところ考えてることの中間アウトプットでもあります。

 ひどい事件や、災害が起きると無数の写真がアップロードされる。暇にかまけてそうした画像をくぐっているとどうもほとんど神話的な世界を僕は生きているのではないかと思うぐらいに、写真が遠くに、そして圧倒的な象徴力をもって見えます。この遠さと、迫真性のある喚起力の両立は僕をさらにずるずると検索の海に埋もれさせていきます。しかし、この神話的というのはいったい全体なんなのか、少し考えてみます。

 神話について話す時、おおむね2通りの取り扱いの仕方がある。
1、神々の現れる物語、あるいは
2、根拠が神秘化された物語
前者は古事記であるとかギリシャ神話、もちろん文字に残らなくとも各地に残る口承の物語も当然含まれる。こちらは単に名詞的である。
後者はたとえば安全神話であるとか、あるいは田中将大の無敗神話なども当時では用語として存在した。こちらは修飾的な用法に近いだろう。

前者に似ているもので、キリストの行いの描かれた聖書や、釈尊に関する経典などなどは神話に含まれない。これは彼らの少なくとも存在が確認できると信じられている限りにおいて、数々の奇跡とは関係なく神話から除外される。このことから分かるのは、実在の不確実なものが現れている物語であるということだ。

では、信憑性がないのかと言えば、そんなことはない。むしろ信憑性がないのであれば神話と呼べない。これら神々はおおむね自然に代表されることが多く、そのことからこの川は神が敵と味方を分かつために流したとか、地形にいわくを付けて神話の裏付けをすることがよくある。または、これがもう少し発展してくると社会の仕組みに反映される出来事として、神話が現れたりもする。(レヴィ=ストロースの研究)

 この観点からすると現実に参照項を持つことによって神話は基礎を築き、かつその神話が「イマココ」の現実以前に語られていたという状況によって現実を補強する。結果が原因を探り当てる道筋が神話の動きということである。

 ここまで至れば、1、2と分けた後者の修飾的と用法の落差はほとんどない。後者に関しても現在の安全であったり、負けなしであったりと言った原因から、これがとんでもない物語であることを遡及的に指し示している。

 ただし、ここでもまだ残る差異は、後者においての時間差の無さであり、むしろ裏切られる可能性があるからこそ神話と呼ばれるその様態である。これは前者の表現のアイロニカルな表現なのだろうか?確かに、ほとんど肯定的意味合いで使われることはなく、不安や怖れと背中合わせの用語法となっている。

 その一方で、妙な熱が常にある。ヒステリックであるか、熱狂的であるかは問わず、神話的なと形容される現代の物語は人の感情を掻き立てる、逆撫でる。確実でないと知りながらも、求められている未来であり、希望の物語だからだ。

 ここに来て、修飾的用法の神話は未来を参照点にしていることが分かる。未来の痕跡を現在の経過から透視して、「イマココ」に人ならざる物語の成立を求める祈りがこの用法の動きだ。

 今や情報は無数に記録され、ほとんど無意識的に日常生活はアーカイブされていく。GPSでのチェックイン、ICマネーでの入出金、そこから分かる移動経路、通話記録、セルフィーに残された位置情報、時間情報、様々なアカウントに紐づけられた購入履歴。こういったものはビッグデータと呼ばれて、マーケターという職種の領野を増やしたけれども、これらは未来の痕跡を透視する仕組みとしても発展している。

 ただし、いまのところマーケターは祈りとは無関係だ。祈りは宗教とともにあったが、世俗においては政治家が担当することになっている。しかし、それ以前に祈りは個人のものだ。

 ビッグデータの時代にあって、それを実感できるのはサクッとグーグルで検索したり、ツイッターのトレンドに浮上したりと、個人が一部であっても膨大なデータを抽出することができる仕組みがあるからだ。

 おこのみの希望も恐怖も検索で何万件と揃う。これはそれだけで個人の手にあまりその意味で神話的だ。僕らはビッグデータの海で神を見つける。神は痕跡でもって語る。

 もちろん統計学はそういった神学から解放してくれるが、むしろ個人の祈りは数値的なデータから導かれることは少ない。数値ではなく無数のフォトジェニックな印象こそが明白な過去の痕跡であり、象徴となる。

 これらは直ちに神話となることはないが、無数の祈りに束ねられる時、新しい社会の基礎となり神話的神々しさをもって語りうる種だ。祈りに必然性がない以上、どのような神話が立ち上がるかは、その都度わからない。ただ、確かなのは祈りも無数の痕跡に支えられるのだから、祈りは口に出すこと、望ましいことは望ましいと口に出すことは慎みよりも尊ばれるべきだと思う。

2016年4月29日金曜日

雨降り、屋根のないところに差し渡す善意など

京極の商店街を歩く時、
錦天満宮を見かけるとなんとなくお参りをするのは
京都に対してよそ者であるという自覚のなせる業でないかと思う。

薄く雨が降る錦天満宮は寺町から見れば
ファーストフード店の横に入口の鳥居があるという
ちょっと不思議なかたちをしているので
最近は外国人観光客がセルフィを撮ってるのをよく見る。

中に入るには宗教的な厳格さが判別しにくい。
だから、写真は撮っても中に入ろうとする人は少ない。
入ったところで、鳥居から奥の参拝するところまで30歩程度か。
ごくごく狭いところだし、なんというか庶民的な神社なんだが。

手を清めて、天満宮オプションの牛を撫でてお参りする。
2人ほど先に来ている人がいた。
初老の男性が二人だが、片方は仕事をリタイヤしたか休みで
片方はビッチリとスーツを着ていた。

スーツの人は、ズバッと言う音をさせて90度までお辞儀をする。
そうしなければならない理由がはっきりあるみたいなお辞儀だ。
九州に親戚でもいるのだろうか。

もう2週間も経った。
今、これ以上ひどいことはあそこでは起きないかもしれない。
それでも、家がなくなることはみじめなことだ。すぐには建てられないし。
物流インフラもこれもすぐには立て直せない。

エクアドルの地震のニュースを見てたら、
水の配給に前日から並ぶという混乱具合だった。
熊本はマシだ。日本は災害に学び、進んでいる。
それは、みじめでないわけではない。

「応援しよう」と言って、
その土地の商品を買うのは本当に応援になるのだろうか。
いや、僕の精神衛生的にはかなり助かる。
しかし、熊本の美味いものを送ってもらって、
コッペパンを買ってもらうというのも変な話だ。
途中運んでるコストを含めてもこれが経済的ということであるとは思う。
避難所ではニーズが顕在化しないから。
(商店という機能の素晴らしいことよ)

経済が十分でないなら、
政治があるので決断したらよろしいわけで、
いつになったらインフレターゲットは成功するのか
というわけでもあるわけですから、ねぇ。

ところで、五輪もロゴが決まってめでたいことですが、なんというかブラジルもごたごたしてるし、五輪ってもしかして発展途上国のするものなのかなと思っている最近であります。発展のための踏み台にするものなんて、事欠かない我が国ではありますが。

2016年4月21日木曜日

コミュニティについて、補足。

昨日のエントリーに補足をしたくなった。

それはいかにも、勤務時間の短縮が
即座にコミュニティの醸成に役立つと思われる可能性があったからだ。

これは明らかなことであるが、
コミュニティ醸成の必要条件であって、十分なものではない。
だから、社会的な投資は勤務時間の短縮だけで済むものではない。
それを超えて積極的な投資が望まれる。

ただし、コミュニティに関する投資は、一概に評価が難しく
行政が介入すると癒着の原因などにもなりやすい。
それに、お仕着せのコミュニティはどうしてもその参加率を下げやすい。

ネットワーク維持のコストが低減しているいまだからこそ、
複線化したコミュニティの所属が実現できる。
行政の立ち位置はそのような現実を受け入れて、
よい方向へと誘導できる環境整備に力を入れるべきである。

ぼくの今回のエントリーは、
つまるところコミュニティに行政がかかわる
リスクを避けられる範囲での条件整備策となる。

また、労働条件の問題は経済問題と生存権とのあいだで
常に問題をはらんでおり、言及しなければ
「健康をそこなわない程度で
双方の合意があれば長時間労働も認められる」ことになりかねない。

これは十分に強調すべきことだが、
ぼくの今回の記事はこの「勤務時間」の問題に
「使用者」「雇用者」の2者関係に割り込むものである。
それも彼らを支えている環境としての社会からの提言として
力を持つべきだと考えている。

こんなところで、書くことがいかほどの力になるかは別として
言葉は誰が口にしても同じ意味になるのだから、
この文章を書くことで誰か別の口にのぼることを願う。

レジリエンスは余暇ですか?

九州での地震はまったくひどいもので、
今回もまた想像もつかないやり口で痛めつけるようなところがある。
まったく居た堪れない。

この地震が起こる前から福島の資料を少しずつ読んでいる。
何かできることがあるとは思っていないのだが、
このように遠く離れて生き残ることについて、
今後も考えていく必要があると思ったからだ。

まぁ、こういう入り口はどうでもいい話だ。
なんせ、こちらはまだあまりにまとまらない。
それよりも、提言になるようなことを思いついたので書いてみようと思う。


***  お題  ***
  もっと余暇を増やし、社会的としてコミュニティに投資すべき。

様々な自然災害が突発的に起きている。
これは最近目立っているとか、そういうのはたいしたことではない。
僕らの歴史感覚とはまったく別個の環境時間が流れているから、
「災害が多い」ではなくて、
「災害はいつ起きるか分からない」ということを前提にすべきだ。
忘れた頃にやってくるなどという箴言は、備えることの不可能性を示唆している。

被害をいくらか抑えることはできても、
被害をゼロにするのは不可能だ。
その前提に立つ限り、いかにして立ち直れるかは非常に重要だ。
その時、コミュニティの重要さはよく言われている。
特にカタストロフを共有した同志として絆も芽生えやすく、
素晴らしいコミュニティがいくつも報告されている。

しかし、これはもちろん事前の環境も相当影響している。
さらに、コミュニティごと壊滅される場合すらありうる。
大事なのは複数のコミュニティを平時から各人が持つことだ。

職場も当然1つのコミュニティであるし、
近所付きあいもそれももちろん、1つのコミュニティだ。
ネットのフォロー関係もそれだって立派なコミュニティである。
本当に何もコミュニティを持たない人というのはごく限られている。
つながりの濃さは濃淡あれど、複数のコミュニティを持つのは
ごく自然なことだと言っていい。

しかし、日本の高度経済成長期のモデルはそうでもなかった。
父親となれば、職場にほぼすべてを捧げるべきで、
残りは当然愛する箱庭家族。
母親となれば、さらに狭く近所付き合いと、家族。
それも核家族化が進行していく中で、親戚付き合いも希薄になっていく。

これが不景気になり、男女共働き、
ダブルインカムで家計を回すスタイルが増えていく。
ワークライフバランスという言葉もよく聞かれるように
なってきたけれども、これはいまだ「実現できたらいいね」という
夢物語のようだ。

もちろん、上手くやっているところもある。
資生堂の取り組みなど、個人的にはかなり感心した。
けれども、企業の自助努力、あるいは労働争議のテーマとして話すだけでいいのか?

先ほど申し上げたようにコミュニティは
不測の事態が起きた時の社会の強靭さに関わってくる。
(はやりの言葉ではレジリエンス)
その為には労働の時間に対する規制を強めるべきだと考える。
具体的には残業手当の高額化(通常時給の2.5倍くらいとか)、および健康を損なわないための厳格な上限の規定の導入だろう。
(労使協定でぐだぐだになるというのは本当におかしな運用だ。)

事業主の方はこうした時、
労働規制が強まるのは勘弁してほしいと思うだろう。
しかし、3つほどの理由を簡単にあげて反論しよう。

第一にこれは単純に効果的な福利厚生となる。
第二に社員を自由にさせておくことは、社員を通じて会社はより社会に浸透することになる。
第三に社員の可能性を各人に任せることにより、多様な感覚を社内に残しておくことができる。これは新規の市場発見や、成熟市場の活性化などに強く影響する。

ゆえに、労働時間の規制は単純に悪影響にはならない。
個別的には人員の確保などで難しい点があるかもしれないが、
社会のコミュニティの発展を妨げることは社会にとっての損失なので、
やはり労働時間の規制が最優先となる。

逆に働く側からすると、十分な給料が得られなくなるのでは、
と思うかもしれないが、仮にそうなら標準時間での給料がそもそも問題なのであって、労働時間の規制以前の問題となる。

この時、オプションにあがってくるのは
最低賃金だが、可処分所得を増やすのは確かに
経済政策的にも悪くないが、
むしろこれは労働への誘引を高めて雇用者を強くしかねない。

それよりも広く薄く労働関係を作ることのほうがよい。
求人数が増える中で自然に時給ベースが高まるのが望ましい。
あるいは、ダブルワークなどもそれだけで社会関係の複線化につながるのでこういったものもよい。

ただ、ベストと思われるのはベーシックインカムである。
所得にかかわらず一定額を給付することは、
低所得者にも労働の流動性に関する恩恵を与えることになる。

この流動性は単純に労働のものでもない。
たとえば土砂崩れがあった故郷に駆けつける若者を支援する
行動の流動性にもつながるはずなのだ。

2016年4月18日月曜日

いかがわしい、セックスについての話。

 良いセックスがしたいと思うようになったのは、これはいよいよ本当に年を食ってきたと思う。週刊ポストとかも正直に言えば非常に気にはなる。気にはなるけれども、原理的にそこに良いセックスなどというものはないし、 もちろん今から書くこの原稿の中にもない。

 世界の子を持つ人たちのほとんどは童貞でも処女でもない。しかし、これがすべてと言い切れないのも確かでLGTBにも子どもを持つ権利はある。核家族が単独で子育てを遂行するのは非常に難しくなっており、社会での子育てが要請されている現在、むしろセックスなしで子どもを持つことは積極的に推奨されるだろう。

 またこのことから、セックスとは無関係に愛の結晶と呼ばれるものを手にすることはできるのは明らかで推奨されてもいる。ゆえにセックスの神秘性はともかくとして、それの神聖さは独占的な力を失っている。試験管ベイビーは恐ろしいことではあるけれども、それは恐ろしいほどの清潔さに基づいている。

 それにもかかわらず体の欲は、良いセックスを求めている。これは単純な個人的な確信であって、こういったことを表明するのは変態として扱われかないことは分かるが、1対1でこういうことを言う相手はちゃんと決めているので、そう無節操なつもりで言ってないことは理解してほしい。

 (高校の時、男子校に通っていたのだがその時の友人が、ホモに目覚めた。その時に高校生らしいリアクションとして友人の付き合いは変わらないけれども僕の方からは恋愛対象にならんぞ、と言ったら、「別に付き合いたからこういったわけじゃないし、ちゃんと好きなカレシはいるんだ」とだいぶ普通にのろけられて、なるほど、そりゃそうだよなと思いました。同じ部活のみんなでバスの後ろでの打明け話でした。)

 セックスは性的興奮をともなうやり取りであって、性器がどうのというのはあくまで形式的なものだということ。公園の藪の中に捨てられたエロ雑誌に興味があったのは隠されていたからだということを忘れて、ただ裸になってどうのというのは単に幼い。

 これからもう少しいかがわしい話になります。セックスのやり取りが形式的なものならそこから生まれる性的興奮こそが本質とされるべきです。これは資本主義を嫌いな人間なら大好きな原理で交換から余剰が生まれるパターンのアレです。贈与と蕩尽のコミュニケーションです。だからヒッピーだかコミューンにはいかがわしい感じがするんです。資本主義に反対するものたちはみんないかがわしい。18禁です。

 性器で感じるのではなく、脳みそで感じるというのは、でもセックスにマンネリを感じて色々試すカップルなら、まぁ気づく話です。だからオタクはいかがわしい。ネコ耳をつけるだけで、反応するし、髪をかきあげた時の耳の感じとかにも感じるし、ニーソックスの一番上の肉の弾力感でイケる。

 オタクがセックスできないというのはだから圧倒的な嘘で、相手がいなくてもセックスはできている。そうでなければ彼らがあんなに夢中なことの説明ができませんよ。だけど、残念ながら良いセックスにはならない。他者がいないから。自分が感じる受容体は肥大させながらも相手を感じさせることに感じないと良いセックスにはならない。ツンデレは擬似的な他者性を搭載した萌えギミックでそれなりにヒットしましたけど、そんな味の素みたいなんで許されますかと。(まぁ、味の素さんにはお世話になってます)

 感情と他者性を飲み込もうとする強欲と、飲み込もうとする他者性にあえて呑まれる欲情は、主体性を手放そうとする主体性でもありますが、もっとも強欲な肉欲です。水の中の水のようにただ混ざるのは動物的であるとバタイユは言い、これの官能を感じない人はいないと信じますけれども、同時に主体性をすでに持っている人間からしたら、他者に対する関心なくしてこの没入は成り立ちません。良い動物的なセックスは他者に対する慈しみなしではありえない、あなたが人間なら。

 もう僕らは通学路を歩く子供たちに声をかけてはいけません。他者に関心を持つのはいかがわしいからです。もうセックスなんてしなくてもいい時代が来ます。いかがわしいことなんてやめよう。宗教はアヘンで、酒はドラッグで、セックスは、さてなんと呼ばれるだろう。でも、いかがわしいことがいけないことだなんて誰が決めたのか。それともいけないことが好きなクチですかね。 

2016年3月25日金曜日

Love affair(じょうじ)

京都で開催中の春画展に行ってまいりました。前回昼過ぎにぶらりと寄ろうと思うと入館制限がかかっていたので、今回はしっかり開館より15分ほど遅れてですがさすがにこの時間はすっと入れます。

それでも、中の展示室は乗車率70%くらいにはなっておりもうちょっとしたらラッシュが来そうな雰囲気をプンプンさせております。

ざっくりみた来場者の分布で言うと男女比はほぼ半々。年代は60代以降の方が40%程度、および外国からの旅行者の方が10%程度といったところでしょうか(アジア系の旅行者はいないように見えた)。

あからさまな描写に確かに度肝を抜かれるといったところはあるのだけれど、正直、これが性的な解放やましてや女性の性欲などと結びつけるのは勘弁被りたいなと思いこうして筆を取る次第。

というのも、あくまで書いている作者は男揃い。平面的描画法において両者に力関係が見えないようにはなっていても、これら構図に直接ジェンダーとの相関を見る必要はない。女性上位の体位であっても、別にそういうのが好きな男連中は腐るほどいるし、別に今のエロ漫画市場でそれがマイナーだとは言えないどころか淫乱で放埓な女などファンタジックなものだからありがたがられて当然のものである。

また、エロとギャグ、さらにナンセンスギャグのかかわりなどというのはこれもまた今も脈々と続いている傾向であって、これは1つにはエロというのが商売的にマネタイズしやすいものでギャグも商業面では同じ効能を持っている。この共通が意味するのは絵師達が食うために広く薄く早く売れる作品を書いていたというただそれだけの事実だと思う。(もう少し言えば絵師と言えばお抱えであるか、財に余裕があるかでなければやれなかった業界に、バックボーンが弱くても飛び込む輩が増えた結果、またはそうしたことを容認できる社会に変化したという面が指摘できる)

食い詰めるというほど、すべての絵師が困窮していたわけでなく、現代でも同人作家が家を建てられることがあるわけで、そうした絵師界隈でもトップはそれなりに裕福だったに違いない。それでも明日の保証があるわけではないという意識は、こういったヤクザ稼業の人々には共通した意識のはずだ。

だからひたすらに書き続け、刷り続ける。そういった中でむしろ強調されるべき点は着物に関する描写および、季節に関する描写、これらは直接売れるかどうかではなくて、おそらく自分たちの絵に関する力量を示すために書き込まざるをえなかった分なのではないかと思う。これは商業的要請ではなくて彼らの業による要請なのだ。

重ねた襟それぞれの模様、衣装色あわせとりどり。源氏物語であるならそういった道具立もろもろ。よく細やかに描かれている。表情は確かに北斎あたりになるとだいぶ色もついているが、これに関しては皆あまり興味がなかったと思われる。情欲そのものを描こうとするよりはシチュエーションものの傾向が強いだろうか。小道具をいろいろと描ける、絵師の腕の見せ所のある、そして非日常感も楽しみやすいイメージプレイが江戸好みだったのだろう。

そうそう、女性が張り型を買うようなシーンもあったりして、確かにそんなものがあったとは、と思うわけだが、勘違いしたらいけないのは別に現代にもあるという話でおおっぴらにしないだけなんだということ。で、春画展に並んでるとおおっぴらだったかのような錯覚に陥りそうですが、別にそれはただの錯覚でふつうに考えて江戸の人々も取り立てて軒先でセックスするようなことはなかったと思うし、張り型は裏口でこっそり商人がやってきたのを購入していたようだから秘め事には違いない。

(そういや春画がより発展していく過程で、お上の取り締まりにあった後の貸本業者によるp2pのポルノグラフィの流布という流れはさもありなんという感じである)

それはともかく、しかし無修正の性器が並んでるのは現代日本ではかなり珍しいことで、この辺はおそらく「子ども」と「性」の関係性が現代にあって特に発展してきたことが関係しているとおもう。うっかり見えることもまかりならない、危険なものとして排除されてきたその歴史の先に私たちはいるわけで。

いや、しかし現代のエロ本よりもエロくないのだとすれば表情、および情念そのものを取り扱おうとしなかったゆえであり、漫画的表現による記号の洗練によって消された性器よりもよほど顔面のほうがポルノグラフィに満ち溢れているように個人的には思える。

見かけ上の性的な放埓がさほど、陰湿でないという事実を持って、性的なものの日常化を考えるものがいるのは理解できる。ただし、現代のエロ漫画から断絶したものというほど違うとは特に思われないし、むしろ春画のエッセンスはきちんと受け継がれてさらに深化しているとおもう。

性的なものの取り扱いは大人においてはそうひどく変化しなかった。日本で子どもが小さな大人でなく、別種の護られるべき存在へと変わったのは近代に入ってからであって、そこで性的なものはネガティブに選り分けられた。要するに「どうして赤ちゃんができるの?」という質問に対して真面目に真剣に取り組んでしまう我々の顔面に張り付いているのがポルノグラフィックなんだと言ってもいい。感情こそはもっとも隠された、大人の特権なのだから。

2016年3月18日金曜日

門外漢によるリョナについての試論(後編)

前回のエントリーでは、
リョナに関しての大雑把な位置付けをする前に、異常性癖についての基盤を示すことで終わっていました。
今回は「リョナ」における固有性を抽出していきたいと思います。

(書いている自分でもエグいなという表現がどうしてもあるので
恐怖心や拒絶感がありそうでしたら読まないほうがいいです)

■っていうか僕は何をもとにして話しているのか

リョナは門外漢と言いながら講釈を垂れるからには
どのようなサンプルを見た上で言っているのか?
そのことを明示するべきでしょう。

どれも、はっきり言って
高校生以下には見せるべきではないくらいにはエグいので
あえて飛ばなくていいと思います。

「荒ぶる座敷わらし」作:金栗
http://kinkuri.html.xdomain.jp/index.html
いわゆるweb漫画にありがちなクソ漫画でございます。
エログロナンセンスを突き詰めてほとんどギャグになってます。
しかしそういったエクスキューズがあってもなおエグい。

「すいつけ!モスたん」作:tk(つくすん別名義)
http://neetsha.jp/inside/comic.php?id=6541
普通の漫画もしっかり書ける作者ですが、
彼のリョナに対するセンスは相当に洗練されています。
この作品は蚊を擬人化したうえですり潰すという良心の介在する余地のない状況を作るところも含めて容赦がありません。

■陵辱とはどう違う

あらためてこういった作品を見ると陵辱という言葉がかなり
近縁関係にあることに気づきます。
もっとも陵辱は単体で性的なカテゴリーを意味しないので
最初から性的なものとして成立しているリョナと別個であるとは言えます。

それならリョナは陵辱の1カテゴリーなのでしょうか。
陵辱がリョナを包含しているのか、
ということに関しては疑義があります。

陵辱にあって犠牲者は狙われます。
ここには必ず襲う側がいます。
先ほど挙げた作品のモスたんでは、しかしそうしようとして
犠牲者を痛めつけているのではありません。
まったく関係性を持とうとすることなく、
哀れモスたんは潰され、毒ガスで燻され駆除されます。

こういった断絶はリョナにおいての特性と言えます。
潰すー潰されるという関係性は必ずしも必要ないのです。
ここにあるのは「    ー潰される」という破壊された1組の概念です。

この不均衡はいかにもファンタジックです。
あたかも、読者とコンテンツの関係のように。

■服従なしの支配

支配の構図を視線の流れとして把握することがありますが、
リョナにおいては見返される視線は必要ありません。

「レイプ目」という術語があります。
これはレイプをされた後の目は
無気力かつ絶望をたたえたうつろな目であろうという
幻想が普及した結果産まれた術語であり、表現です。

このアイコンは明らかに関係の断絶の表象です。
襲う側からの一方的な監視。
見返される逆襲されるおそれのないもの。

このようにしてとらえると欠損をことさらに
取り扱おうとするのも、同じように
こちらへのアクセスを防ぐ象徴の働きをしているのが見えます。

拘束、陵辱においてはSMにも同じような表現がありえますが
SMは常に主従関係をベースとするので、
アクセスそのものを封じることはありません。
最終的に喜んで従属することを表現するために隷属者は
積極的でなければなりません。

リョナにはそのような配慮は無用なのです。
服従なしの支配がここにはあります。

■ファンタジックな臆病さ

こういった不均衡な関係性は
ごく単純にポルノグラフィと享受者の関係にあたります。

この関係性そのものに享楽を発見したことがおそらく
このリョナというジャンルを発展させる原動力になったはずです。

ここに描かれる過剰な暴力は、
ほとんどジョークに近いシニカルさも持っています。
これは出自が自己言及性を持つことの反映でもあります。

あまりに過剰なために、常に不謹慎である
リョナはポルノの中のポルノとして今後も脈々と続いていくでしょう。

最後までご静聴ありがとうございました。

2016年3月17日木曜日

門外漢によるリョナ趣味についての試論

■うまるちゃん虐待bot死す。

そんなもの全然知らなかったわけだが、
虐待botというジャンルがツイッターにはあるようで
その中のヤンジャン連載中の日常系マンガである「うまるちゃん」を
ひたすら虐待するツイッターがこのほど、版元から訴えられかけ示談になったようだ。

http://matome.naver.jp/odai/2145815626251556401

この虐待系botはいくつもあるようで、これらは基本的に
「リョナ」と呼ばれるジャンルに入る。
何をカマトトぶって、と言われそうな気もするくらい見るところでは見る単語だ。
改めて検索してみると、「猟奇オナニー」を略したかたちから「リョナ」となったらしい。

http://dic.nicovideo.jp/t/a/リョナ

今回のエントリーはこのリョナがいかにして性的興奮と結びついているかについて考えようと思う。

■リョナとは何か

まず、猟奇的な図像と言ってもいろいろある。
が、メジャーなものから挙げていけばこんな感じだろうか。

1、腹パン
2、四肢断裂などの身体的欠損に至るものを含めた傷害
3、吐血、嘔吐
4、その他拷問器具などを用いた責め苦

猟奇趣味というわりには腹パンはマイルドにも見える。
というか、むしろこれが入っていることで、
実はこのジャンルがかつて死刑執行が娯楽であった時代とは
また別の種類の娯楽だということを示している。
(もちろん、ほとんどの場合腹パンだけでもおそろしく容赦がないし、
3の描写まで含まれることがほとんど)

つまるところ、リョナは単純に身体的ダメージから興奮を得ているのとは違う。
身体的なダメージの描写はリョナにおける結果として存在しており、
それらは直接の目的とされていない。
仮にそうであるなら、あのキャラを腹パンしてぇという、
特定のキャラへの執着はありえない。

また、一種の拷問も含まれるには違いないが、SMとも違う。
なぜなら支配はあったとしても服従は求められていないからだ。

■隠蔽されたものへのアクセス

うまるちゃんがそうであったように
能天気でかわいらしいキャラはターゲットにされやすい。
一方で、強気なキャラも一定数の需要がある。

この辺の需要とは、
追い詰めた時にどのようなギャップがありうるかという点が重要で
それが好みの差としてあらわれる。

これは広く取れば「隠蔽されたものたち」の領域であり、
こういった類のものはほぼなんでも性癖としてとりあげられる。
スカートの下は当然のことながら、寝顔もそうだろうし、トイレもそうだ。

「隠蔽されたものたち」への興奮は比較的単純である。
非日常であること、とその領野において対象者と共犯関係を結ぶことだ。

これは通常のセックスにおいても、
互いに密室に入ることで互いの興奮を呼び起こすことになるので
理解しやすいのではないかと思う。

変態性癖と呼ばれるものの多くはこの「隠蔽されたものたち」への参入の際に
了承もなく一方的に共犯関係を結んでしまうものである。

リョナにおいては暴力によって生命の危機をもたらすこと、
および生殺与奪の権利を握ることでそれが達成される。
つまりスカートがめくられる。

ちょっと疲れたのでこの辺で一旦区切ります。