2013年2月15日金曜日

横顔ポートレート

写し出された横顔は
見られているが、こちらを見ない。

通り過ぎるその瞬間、目に焼き付けたのはそんなものだったろうか。

ここにある横顔はとても美しく、だけれど
こちらは見られていない。
見られることを受け入れているけれども、
それは見せているだけであって、それですべてでもない。
そして僕が見たかったものかどうかもよくわからない。

ただ、目があった瞬間から遅れて逸れて行った視線の行く先を知れなかった。
それがこちらにとどまっていれば。あるいは。

しかしそんなことはない。

そういうことの積み重ねで、横顔だけが増えていく。
フレームの向こう側にあるだろう視線の贈り先が少しでも
美しくあればいいのだけれど。

2013年2月9日土曜日

絶望について

僕の絶望は僕だけのものだ。

誰かに手渡すことも、分かち合うこともあり得ない。

仮にできるとして、してはいけないことなのだ。
絶望をまき散らさないとかそういうことではない。

誰かに打ち明け話をする時、
それはすでに絶望などではないか、
もしくは、絶望への道のりのみを話し、
因果関係を説明したとしても果実である絶望は
自分の為にとっておいているはずだ。

絶望は自分の中にあるわけでもない。
自分を包んでいる卵の殻のようにある。
絶望を手にした時に、僕は死んだのではなく
単純に生まれる前に戻っている。

そうして徘徊する。
ごく狭い絶望の殻の内側を。

絶望を誰かに渡そうとするなら、
僕を渡すことと何も変わらない。

それはできない。

そうして、かたくなにとっておかれる。

破ればいい。叩けばいい。
徘徊を繰り返し、遠くの果てで何度かおでこをぶつけてしまえばいい。

その後に話せる時には、確かにそれは絶望ではなく
三角コーナーに捨てられた生ゴミとして
定期的な間隔をもって回収されていくはずだ。

2013年2月3日日曜日

かんぬき

感傷的になるにはまだ早い。

僕らが僕らでありうる限り。
一人であることを許さないようなそんな暴力がいまだ渦巻いている
なら、いいんだよ。

でも、そうでもないんだ。

そんなことにコストをかけなくなったんだ、これからの社会は。
一人であることを「構わない」ようになったのは
商業的にも動員する必要がなくミクロなマーケティングが可能になったからだ。

深夜0時、昔好きだったラーメン屋が潰れて
別の店が出来た。同じ親元らしく屋号がちょっと似てる。
でも前のほうが好きだった。

店の前でたむろしてる40〜50代くらいの男が3人。
「でも、まずくなったよねぇ、前の方がうまかった」なんて言ってる。
つい、僕も
「いや、ほんとにそうですよ」なんて
深めるつもりもないけど打ち解ける、感じ。

とてもほっとする、そんな感じ。

叩き壊す壁なんかそうそうない。
ノックすれば開くドアがほとんどだから、
だから、感傷的になって、内側からかんぬきをかけないで。