2013年8月24日土曜日

風立ちぬレビュー

たった今、見てきました。

物語の人の宮崎監督にしてはだいぶ
詩的な方法を使おうとしたのがよく見えます。
つまるところ、イメージを別のイメージに置き換えながら
提示し直す手法です。

風を媒介にして手渡して行くというシーンが何度となく描かれて
それがタイトルである、「風立ちぬ」の別の形象であり、
続いて口ずさまれる「生きて」という言葉で価値付けをされています。
ま、ど直球なメッセージですね。

逆にストーリーの軸は非常に貧弱です。
何故、飛行機なのか、何故、それを作らねばならないのか
そういったものはほとんど意図的と言っていいほど排除されています。
これらの理由付けはドラマを作る上で不可欠にもかかわらず、です。

物語作りのベテランである宮崎がそのことを分かっていないとも思えず
そうなると、ここに残るのは詩を借りたメッセージということになります。
では、誰に向けているのかと言った時にそれは当然観客だと見えますが
まず第一に市井に生きる人々を意識していたと思われます。
というのも、一般風俗にウェイトをおいた描写が多くて、
出稼ぎの人やシベリアだとかそんなもの書く必要あるのか、と思えるほどです。
でも、その割に衆愚のように扱っててまったく好感もてないのよね。

あぁ、それとタバコのシーンはどうということもなく
これで広告効果もあると思えないので、条約に抵触することもないかと思いますが
キスシーンが割と多いので、いちゃこらしやがってと
こちらの方が規制したほうがよろしいんじゃないでしょうか。

2013年7月18日木曜日

参院選マニフェエストを読んで見よう。

参院選突入である。

7月21日に投票ということだけれども、果たして今回は特に決めかねている。

はっきり言ってぐだぐだである。

原発の扱いも、TPPも、憲法改正も、経済問題も
それぞれ腫れ物になってしまって一人一人の候補者が何かを明言していても
党としては玉虫色なところが多く感じる。

(領土問題関連は逆に相手国があるので
こちらとしては言いたいことは言いやすいのかねぇ。
おおむね勇ましい。やめてほしいんだけど。)

とはいっても、大枠はあると思うので
党のマニフェエストを見ることから考えたいと思う。

僕が考えている現在のチェックポイントとしては
1、憲法96条の先行改正は馬鹿げている。
(うまくいかないからゲームのルールを変えるなんてのはワガママな子どものようだ)
2、経済の復興などというのは政策ではないので無視する。
(現在の世界で内政によって経済の振興ができるというのはあり得るとお思いですか?)
3、変わって政府の経済政策に関しては再分配の重点の置き方をチェックすべし。
(ここは本当に人によって見え方の違うところ、
僕はトルクダウンよりもボトムアップを支持するし、中小や個人事業主を活性化させるべきだと思う。)
4、原発は現状において慎重かつ厳格な運用、脱却に向けてのロードマップを持つこと
(人によってはプルトニウムを買い込むことは国防上の理由があってというかも)
5、外交にあっては紛争解決に極力努めること。
(資源の少ない日本がやっていく為には軍事に金を費やさないことがメリットにつながる。
紛争がある時点で、2国間で差し向かいは緊張を高めるだけなので常に多国間の問題として問題を開く姿勢がより重要だと思う。)

さて、各党です。

A、自民党
 トップが96条うんぬん言うてますけど、これに関しては党内の異論もあるので投票するならそちらの方を選んでいただきたい。

さて、HPを見て行きます。
https://special.jimin.jp/political_promise/
企業活動の為の法人税減税。(大企業向けかな)
*商標法などの見直し(TPP対策と思われ)
*ちょいちょいなんかの市場規模を拡大することを目指すって書いてるけど具体的な方策が見えない。リップサービスの感が強い。そこら辺はスルー。
*エネルギー関連に「北米シェールガス」推進。(アメリカとの取引材料?)
*インフラの輸出(原発の輸出のことです。これは政府が扱うマターなのかがそもそも分からん)
*地域の項目が雇用の延長の話しかなくて中身なさすぎ
*外交防衛の項目は意外にマイルド。軍備の拡充に関しては確信を持って進める意思を感じる。僕はいらん。
*教育の項目に「領土教育」なるものがあるが、何を考えているのか。見識がなさすぎる。国民とは国家とはなんであったのか。万世一系の日の本が今もあると信じるならば、とりあえず琉球王国を捨てなさい。
*教育に給食の国産品割合の増加がある。多分TPPとバーター。
*2016年度までに新たに選挙制度の抜本改革を行いたいらしい。
*憲法改正は「緊急事態」に関する中央集権の強化と国王をワイドショーよりは政治に出したいそうだ。(僕としてはもうどちらもいいんじゃないか)

逐一読みながら来ましたが、やはり自民は僕にはあいません。
疲れたので一旦筆を置きますが、
民主党を見ても今回はまとまらなさすぎて残念感が半端ないだろうね。

2013年7月2日火曜日

未成年の選挙活動について

ネット選挙活動の解禁にあたって
例えば中高生がそれをすると法律違反になってしまうという記事が載っていた。

しかし、これは一体どのような意味合いがあるのだろうか。

間違いなく一つは子どもの保護であるには違いない。
これは子どもの就労に対する制限と同じ発想のはずで、
勝ち取ることと搾取されること両面の可能性がある領域での活動の制限である。

理解できなくもない。
だが、保護の為の法律というのはしかし、常になにかやり切れない。
何に対する侵犯なのか、何に対する責任なのか、と問うた時
法律に対するそれであるとしか言えない循環論法をとるか
われわれ、社会の(勝手な)責任であると見栄をはるかのいずれかだろう。

就労をとりあげるかわりに親族の扶養義務から社会の保障制度も用意しただろう。
では、政治をとりあげるかわりに何を用意したのだ。

セックスや喫煙飲酒をとりあげるのとは別です。
それらは直接的な利益を得るたぐいのものではない。
政治は子ども自身にとっても死活問題にならないものではない。

政治団体および政治家からの直接な関与、組織化がなければ
(それは政治団体および政治家の責任において排除する)
子どもが何を言おうがいいんじゃないか。
ほんとうは裸の王様と言われるのが怖いのか。

少なくとも現行法において柔軟な運用がなされることを望む。

2013年6月18日火曜日

自由と平等と平和と

さて、参院選が近づいてまいりました。
憲法がどうのとやかましいので、僕も少し
自分の中での基本的な概念と自分の立ち位置を確認したいと思う。

平和と自由と平等と。
それぞれはまったく別の要素から来ているからこそ
高々と三つ掲げられている。

それをどのように総合するか。

平和とは生存の保証であり、
それ自体疑うべくもなく受け入れて良いものだろう。

具体的には私的な空間における暴力の排除である。
または公的な空間における暴力の統制である。
対外的には暴力を担保することである。

これは一義的に政府が君臨すべき内容である。
なぜなら、ごく単純に私的ー公的という空間の分節は
政府にしか与えられていない権能だからである。

そして、平和と自由は相克する。
自由は競争を生み、暴力への道が開かれている。
また、平和と平等はどうかといえば
平等が動的な均衡を指せば、そこにもやはり闘争がある。

自由に関しては何故目指されるべきかが曖昧である。
責任のためか?もしくは、充実のためか?
また、文明の発展のためか?

責任とは他者との関係において、
充実とは個人の内面において
文明の発展ならば社会的な効用において、
それぞれ自由は姿を見せるがどれも違うニュアンスになる。

しかし、いずれにせよ
未来へのベクトルが表明されている。
確固たるものではないが、言わば希望と表現してもよい未来のことだ。
平和は現在の私を守るが、
自由は希望によって未来の私を守る。

平等とは何か?
どのような範囲において、何を基準にするのか。
3つの概念のうちで一番内容が不明瞭である。

共産主義者は富を基準にする、と答えたが、
あっという間に希望が失われた。
それではいけない。

平和と自由を担保するために平等があるとするならば
自由を尊重し、平和を愛する人々のために
平和と自由を平等に与える。
このように答えるほかないのではないか。

ここまでで残った問題としては
暴力の定義と、公的ー私的の振り分け、この2点になる。
とりあえずいったんおしまい。

***

え?権利?
そんなものは平和と自由を切り分けて
ごちゃ混ぜにパッケージした小売用商品でしょ。

2013年4月2日火曜日

京都新聞より。ボーダーについて。

キプロスの学生の話が載っていて、
留学したものの困り果ててるよってな状況が伝えられてる。
(どうだろ、伝えたいニュアンスとその人本人のニュアンスは一致してるかな)

思えば、留学だけでなく出稼ぎやらなんやら
国境は軽々と越えられる。
ただ異文化であるというだけで、仮に言葉ができても
少なからずのマイナス査定はあるだろう。

にもかかわらず、母国よりマシと思える
というのが現在の格差世界です。

ガラパゴスだなんだと言われているうちは
まだ豊かであったと過去形で語れるうちなんだろう。
つまるところ離脱しつつあるわけだが。

ここからの100年、我々が試される。
我々という概念のキャパシティが。

サービスであり、インターフェイスであり、
ガイダンスであるようなそんな形態の商人がいまや力を持つだろう。
なぜと言って軟着陸しなければならないからね。

さて、もう一つ京都新聞に面白い記事があってね。
伊平タケさんという瞽女さんの、いわゆる盲の芸人の、記事があった。

長くなりますが論旨を要約します。

瞽女さんの芸は選ぶところがない故に得られた懸命さが芸を高みに置いている。
それは「しかたなしの極楽」として彼女には内面化される。
また一方で、現代の盲学校あるいは障害者教育というものは
「平等」を理念に進められる。それは選択肢を増やすもので良いものではあるが、
瞽女さんの芸にあったような差異を立脚点においたものとは道行が根本的に違うのだ。

ん、まぁなるほど。しかし、
健常者たる僕としては「しかたなしの極楽」なぞどこにでもあると言おう。
差異を立脚点に置くか否かは、この際関係ない。
溢れるばかりの凡庸さを、 無数にある選択肢を選びきれない
この怠惰を味わうばかりの健常者の僕にとってそれはどこにでもある。

いまや孤島に浮かんでいるとしても、
しがみついているうちは極楽である。
勝手に驚いて手を離さない限りは。
あるいは手をつないでしまえばいい、ごく単純に。
はなから我々などパッチワークであった。

そしてこの駄文を僕のビール一杯の世界に対する代金とさせていただく。

2013年3月2日土曜日

エントロピー


河北新聞の記事のリンクから。
http://www.kahoku.co.jp/news/2013/03/20130302t63023.htm

今も、原発の後処理が続いている。
それも、軌道に乗ったとはいえないようなかたちで。

今もどんどん新たに汚染水ができている状況で
タンクが林立して、汚染水を浄化する装置も作ってはいるが
安全性に問題があるようだ。

というのも、汚染水を浄化するというのは言い方で、
結局、「汚染」と「水」の分離をしているだけだから。
「汚染」の要因そのものはより濃縮されて溜められる。

放射能とはエントロピーそのもののようで、
それをコントロールできると思うのは
もはや途方のない思い違いであるような気さえする。

そう言えば、スペースシャトルはこういう時には使わないのだろうか。
倫理なのか、政治なのか知らないが。
そういう理の内で処理できるのだろうかね。

2013年2月15日金曜日

横顔ポートレート

写し出された横顔は
見られているが、こちらを見ない。

通り過ぎるその瞬間、目に焼き付けたのはそんなものだったろうか。

ここにある横顔はとても美しく、だけれど
こちらは見られていない。
見られることを受け入れているけれども、
それは見せているだけであって、それですべてでもない。
そして僕が見たかったものかどうかもよくわからない。

ただ、目があった瞬間から遅れて逸れて行った視線の行く先を知れなかった。
それがこちらにとどまっていれば。あるいは。

しかしそんなことはない。

そういうことの積み重ねで、横顔だけが増えていく。
フレームの向こう側にあるだろう視線の贈り先が少しでも
美しくあればいいのだけれど。

2013年2月9日土曜日

絶望について

僕の絶望は僕だけのものだ。

誰かに手渡すことも、分かち合うこともあり得ない。

仮にできるとして、してはいけないことなのだ。
絶望をまき散らさないとかそういうことではない。

誰かに打ち明け話をする時、
それはすでに絶望などではないか、
もしくは、絶望への道のりのみを話し、
因果関係を説明したとしても果実である絶望は
自分の為にとっておいているはずだ。

絶望は自分の中にあるわけでもない。
自分を包んでいる卵の殻のようにある。
絶望を手にした時に、僕は死んだのではなく
単純に生まれる前に戻っている。

そうして徘徊する。
ごく狭い絶望の殻の内側を。

絶望を誰かに渡そうとするなら、
僕を渡すことと何も変わらない。

それはできない。

そうして、かたくなにとっておかれる。

破ればいい。叩けばいい。
徘徊を繰り返し、遠くの果てで何度かおでこをぶつけてしまえばいい。

その後に話せる時には、確かにそれは絶望ではなく
三角コーナーに捨てられた生ゴミとして
定期的な間隔をもって回収されていくはずだ。

2013年2月3日日曜日

かんぬき

感傷的になるにはまだ早い。

僕らが僕らでありうる限り。
一人であることを許さないようなそんな暴力がいまだ渦巻いている
なら、いいんだよ。

でも、そうでもないんだ。

そんなことにコストをかけなくなったんだ、これからの社会は。
一人であることを「構わない」ようになったのは
商業的にも動員する必要がなくミクロなマーケティングが可能になったからだ。

深夜0時、昔好きだったラーメン屋が潰れて
別の店が出来た。同じ親元らしく屋号がちょっと似てる。
でも前のほうが好きだった。

店の前でたむろしてる40〜50代くらいの男が3人。
「でも、まずくなったよねぇ、前の方がうまかった」なんて言ってる。
つい、僕も
「いや、ほんとにそうですよ」なんて
深めるつもりもないけど打ち解ける、感じ。

とてもほっとする、そんな感じ。

叩き壊す壁なんかそうそうない。
ノックすれば開くドアがほとんどだから、
だから、感傷的になって、内側からかんぬきをかけないで。

2013年1月21日月曜日

生産とマネタイズ

生産とは新しくこの世に産み落とすことだ。
マネタイズとは権利を他者に分かち与え、見返りを受け取ることだ。

この二つの溝は見ての通り、
ものそれ自体とゲームであって
まったく別のフェイズに属している。

マネタイズが正当化されるべき点は評価にある。
評価されるゆえに、大きな見返りとなるというのは一見よいことに思える。
だが、誰にとっての評価か。

例えば武器は使うものにとって身の安全と敵の制圧能力を増すのでよろしい。
だが、敵にとっては脅威である。
そしてこの場合、敵が脅威に思うことはプラスの評価にしかならない。
武器とはそのようなものである。

また、マネタイズには注目というファクターもある。
これは先の点において誰かがひどくマイナスに思うものも
それゆえに評価を高める場合があり、それゆえ注目という要素が重視される。
マーケティングではセグメンテーションと潜在需要の掘り起こしという
理解をされる側面だ。

かようにマネタイズは世界にとってまったく不完全な制度である。
にもかかわらずこちらが主流であるのは、何故だろう。

それは生産があまりにも当たり前のことであるからだ。
今まで生物的に繰り返されてきた出産が生産であることは言うにおよばず
言葉を交わすこと、料理を作ること、おいしいとつぶやくこと。
こういったことすべてが生産である。

これらを逐一カウントするようなことはされてこなかった。
そしてまた必要もないだろう。
だが、計量化する必要がないこととこれを捨て置くこととは別個の問題だろう。

生きるということをすくい出すために
マネタイズを相対的に弱体化する必要があると思う。