2016年4月18日月曜日

いかがわしい、セックスについての話。

 良いセックスがしたいと思うようになったのは、これはいよいよ本当に年を食ってきたと思う。週刊ポストとかも正直に言えば非常に気にはなる。気にはなるけれども、原理的にそこに良いセックスなどというものはないし、 もちろん今から書くこの原稿の中にもない。

 世界の子を持つ人たちのほとんどは童貞でも処女でもない。しかし、これがすべてと言い切れないのも確かでLGTBにも子どもを持つ権利はある。核家族が単独で子育てを遂行するのは非常に難しくなっており、社会での子育てが要請されている現在、むしろセックスなしで子どもを持つことは積極的に推奨されるだろう。

 またこのことから、セックスとは無関係に愛の結晶と呼ばれるものを手にすることはできるのは明らかで推奨されてもいる。ゆえにセックスの神秘性はともかくとして、それの神聖さは独占的な力を失っている。試験管ベイビーは恐ろしいことではあるけれども、それは恐ろしいほどの清潔さに基づいている。

 それにもかかわらず体の欲は、良いセックスを求めている。これは単純な個人的な確信であって、こういったことを表明するのは変態として扱われかないことは分かるが、1対1でこういうことを言う相手はちゃんと決めているので、そう無節操なつもりで言ってないことは理解してほしい。

 (高校の時、男子校に通っていたのだがその時の友人が、ホモに目覚めた。その時に高校生らしいリアクションとして友人の付き合いは変わらないけれども僕の方からは恋愛対象にならんぞ、と言ったら、「別に付き合いたからこういったわけじゃないし、ちゃんと好きなカレシはいるんだ」とだいぶ普通にのろけられて、なるほど、そりゃそうだよなと思いました。同じ部活のみんなでバスの後ろでの打明け話でした。)

 セックスは性的興奮をともなうやり取りであって、性器がどうのというのはあくまで形式的なものだということ。公園の藪の中に捨てられたエロ雑誌に興味があったのは隠されていたからだということを忘れて、ただ裸になってどうのというのは単に幼い。

 これからもう少しいかがわしい話になります。セックスのやり取りが形式的なものならそこから生まれる性的興奮こそが本質とされるべきです。これは資本主義を嫌いな人間なら大好きな原理で交換から余剰が生まれるパターンのアレです。贈与と蕩尽のコミュニケーションです。だからヒッピーだかコミューンにはいかがわしい感じがするんです。資本主義に反対するものたちはみんないかがわしい。18禁です。

 性器で感じるのではなく、脳みそで感じるというのは、でもセックスにマンネリを感じて色々試すカップルなら、まぁ気づく話です。だからオタクはいかがわしい。ネコ耳をつけるだけで、反応するし、髪をかきあげた時の耳の感じとかにも感じるし、ニーソックスの一番上の肉の弾力感でイケる。

 オタクがセックスできないというのはだから圧倒的な嘘で、相手がいなくてもセックスはできている。そうでなければ彼らがあんなに夢中なことの説明ができませんよ。だけど、残念ながら良いセックスにはならない。他者がいないから。自分が感じる受容体は肥大させながらも相手を感じさせることに感じないと良いセックスにはならない。ツンデレは擬似的な他者性を搭載した萌えギミックでそれなりにヒットしましたけど、そんな味の素みたいなんで許されますかと。(まぁ、味の素さんにはお世話になってます)

 感情と他者性を飲み込もうとする強欲と、飲み込もうとする他者性にあえて呑まれる欲情は、主体性を手放そうとする主体性でもありますが、もっとも強欲な肉欲です。水の中の水のようにただ混ざるのは動物的であるとバタイユは言い、これの官能を感じない人はいないと信じますけれども、同時に主体性をすでに持っている人間からしたら、他者に対する関心なくしてこの没入は成り立ちません。良い動物的なセックスは他者に対する慈しみなしではありえない、あなたが人間なら。

 もう僕らは通学路を歩く子供たちに声をかけてはいけません。他者に関心を持つのはいかがわしいからです。もうセックスなんてしなくてもいい時代が来ます。いかがわしいことなんてやめよう。宗教はアヘンで、酒はドラッグで、セックスは、さてなんと呼ばれるだろう。でも、いかがわしいことがいけないことだなんて誰が決めたのか。それともいけないことが好きなクチですかね。 

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