2016年3月25日金曜日

Love affair(じょうじ)

京都で開催中の春画展に行ってまいりました。前回昼過ぎにぶらりと寄ろうと思うと入館制限がかかっていたので、今回はしっかり開館より15分ほど遅れてですがさすがにこの時間はすっと入れます。

それでも、中の展示室は乗車率70%くらいにはなっておりもうちょっとしたらラッシュが来そうな雰囲気をプンプンさせております。

ざっくりみた来場者の分布で言うと男女比はほぼ半々。年代は60代以降の方が40%程度、および外国からの旅行者の方が10%程度といったところでしょうか(アジア系の旅行者はいないように見えた)。

あからさまな描写に確かに度肝を抜かれるといったところはあるのだけれど、正直、これが性的な解放やましてや女性の性欲などと結びつけるのは勘弁被りたいなと思いこうして筆を取る次第。

というのも、あくまで書いている作者は男揃い。平面的描画法において両者に力関係が見えないようにはなっていても、これら構図に直接ジェンダーとの相関を見る必要はない。女性上位の体位であっても、別にそういうのが好きな男連中は腐るほどいるし、別に今のエロ漫画市場でそれがマイナーだとは言えないどころか淫乱で放埓な女などファンタジックなものだからありがたがられて当然のものである。

また、エロとギャグ、さらにナンセンスギャグのかかわりなどというのはこれもまた今も脈々と続いている傾向であって、これは1つにはエロというのが商売的にマネタイズしやすいものでギャグも商業面では同じ効能を持っている。この共通が意味するのは絵師達が食うために広く薄く早く売れる作品を書いていたというただそれだけの事実だと思う。(もう少し言えば絵師と言えばお抱えであるか、財に余裕があるかでなければやれなかった業界に、バックボーンが弱くても飛び込む輩が増えた結果、またはそうしたことを容認できる社会に変化したという面が指摘できる)

食い詰めるというほど、すべての絵師が困窮していたわけでなく、現代でも同人作家が家を建てられることがあるわけで、そうした絵師界隈でもトップはそれなりに裕福だったに違いない。それでも明日の保証があるわけではないという意識は、こういったヤクザ稼業の人々には共通した意識のはずだ。

だからひたすらに書き続け、刷り続ける。そういった中でむしろ強調されるべき点は着物に関する描写および、季節に関する描写、これらは直接売れるかどうかではなくて、おそらく自分たちの絵に関する力量を示すために書き込まざるをえなかった分なのではないかと思う。これは商業的要請ではなくて彼らの業による要請なのだ。

重ねた襟それぞれの模様、衣装色あわせとりどり。源氏物語であるならそういった道具立もろもろ。よく細やかに描かれている。表情は確かに北斎あたりになるとだいぶ色もついているが、これに関しては皆あまり興味がなかったと思われる。情欲そのものを描こうとするよりはシチュエーションものの傾向が強いだろうか。小道具をいろいろと描ける、絵師の腕の見せ所のある、そして非日常感も楽しみやすいイメージプレイが江戸好みだったのだろう。

そうそう、女性が張り型を買うようなシーンもあったりして、確かにそんなものがあったとは、と思うわけだが、勘違いしたらいけないのは別に現代にもあるという話でおおっぴらにしないだけなんだということ。で、春画展に並んでるとおおっぴらだったかのような錯覚に陥りそうですが、別にそれはただの錯覚でふつうに考えて江戸の人々も取り立てて軒先でセックスするようなことはなかったと思うし、張り型は裏口でこっそり商人がやってきたのを購入していたようだから秘め事には違いない。

(そういや春画がより発展していく過程で、お上の取り締まりにあった後の貸本業者によるp2pのポルノグラフィの流布という流れはさもありなんという感じである)

それはともかく、しかし無修正の性器が並んでるのは現代日本ではかなり珍しいことで、この辺はおそらく「子ども」と「性」の関係性が現代にあって特に発展してきたことが関係しているとおもう。うっかり見えることもまかりならない、危険なものとして排除されてきたその歴史の先に私たちはいるわけで。

いや、しかし現代のエロ本よりもエロくないのだとすれば表情、および情念そのものを取り扱おうとしなかったゆえであり、漫画的表現による記号の洗練によって消された性器よりもよほど顔面のほうがポルノグラフィに満ち溢れているように個人的には思える。

見かけ上の性的な放埓がさほど、陰湿でないという事実を持って、性的なものの日常化を考えるものがいるのは理解できる。ただし、現代のエロ漫画から断絶したものというほど違うとは特に思われないし、むしろ春画のエッセンスはきちんと受け継がれてさらに深化しているとおもう。

性的なものの取り扱いは大人においてはそうひどく変化しなかった。日本で子どもが小さな大人でなく、別種の護られるべき存在へと変わったのは近代に入ってからであって、そこで性的なものはネガティブに選り分けられた。要するに「どうして赤ちゃんができるの?」という質問に対して真面目に真剣に取り組んでしまう我々の顔面に張り付いているのがポルノグラフィックなんだと言ってもいい。感情こそはもっとも隠された、大人の特権なのだから。

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